昭和46年04月20日 朝の御理解
御理解 第90節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」
そうさせなければおかぬもの、又はそうしなければおられぬもの、そうさせねばおかんという、止むに止まれぬ働き、又はそうしなければおられぬという、止むに止まれぬ働き、そういう働きが一つになっての働き合い、それが神様の願いであり、私どもの願いである。その願いと願いが一つになる。で今日の御理解をもってすると開かれる道なのであります。そうさせなければおかぬ。私は今朝から今申しました事を頂いたんですけど、私は九十節とどんなにつながって行くかはさっぱり私自身も見当もつかない。
まあお話ししている内に何とかつづまりも付いて行くでしょうけれどもね。そうさせなければおかんという働きと同時に、そうしなければおられないという働き、しかもその止むに止まれぬ働きが、一つになる時、そこから生まれて来るものが、一時はむつかしゅうてもというておられます。神のおかげで開かせてもらうのぞという、神のおかげで開けてくる道がここにはっきりして来るのじゃないかと今日頂いとります。
そこでそうさせねばおかんという働き、それは中々説明しにくい難しい気が致しますね。これは神様が私どもにおかげを下さろうとする。いわゆる働きかけと申しますかね。私どもが信心にならして貰うて、そしておかげを頂きたいとこう願う。そこから信心が始まる訳です。そこで神様はそういうおかげを、願うおかげを下さろうとする。そういう働きかけというものが始まる訳ですね。そこでそういう働きかけを、こちらがそうしなければおられんという、止むに止まれぬものが出来てくるということ。
まあたとえて例を申しますと、もう何年前だったでしょうかね。佐田さんところのお家の本店に当たります。それが倒産を致しまして、丁度佐田さんは御本部参拝をなさっておられました。そういう催しというか、そういう雰囲気があったりでしたから、佐田さんとしては、とてもそんな御本部参拝なんかはずせる状態ではなかった。それでも矢張り親先生が、御本部参拝なさるのにどうしてもお供がしたい。いやお供させて頂きますと言った様な願いも立てられてあったと思うのですども。
あれやらこれやら難しいことは、暫く棚に上げてというか、決断力を以て御本部参拝をさせて頂きました。ところが私どもあちらへ着きまして、その時は菊栄会の方達、菊栄会の方達ばかしに委員長夫妻でしたかね、自動車でお参りしました。そして帰りに山口の方に寄らなければならないので、御参拝を終えてすぐ私どもは山口の方へ向かいました。そしてすぐ後に本店の方から、本部の方へどんどん電話があったらしい。
本店の方からは金光町の宿屋という宿屋には全部電話かけられたけれども、佐田さんという人はおらなかったとこういうわけです。おらん筈です。こちらはもう発っているのですから。しかもツーと帰るんじゃなくて、一晩泊りで山口の方へ萩の方へ回っておりました。その間に起きておる問題、その間に佐田さんの本店の方が倒産することになりましたけれども、分家であり、同時に支店であるところの佐田さんの方も一緒に倒産しなければならない浮き目があったのですけれどね。
佐田さんが現場におられなかったというだけで、あれもこれも解決してしまっておったというようなおかげでした。ここで私が申します、少しまわりくどいかも知れませんけれども、神様がそうさせねばおかんという働き、それは次のおかげを下さろうとする働き。親先生が御本部参拝をされる。しかも御供えさせて頂く。「こういう事情がありますけんお参りできません」と言えば言い訳できる状態だけれども、神様はそうさせねばおかんという働きが佐田さんの上に起こった。
自分としてはその内容としては、そういう手落ちがあったとは、全然夢露知られずに御本部参拝なさっとられる。ところが一寸した手違いがあっておったことが、実を言うたら神様が手違いをさせてござること言う事になった。手違いのおかげで自分とこまでもの巻き添えも食わんですむと言う様な御かげになった。だからそこがですね、神様が止むに止まれん働きかけをですね。
佐田さんの上になさって、そういう問題を抱えておらけれるけれども、御本部参拝をさせなさるという働きがもしなされていなかったらどう言う事になるだろうか。まあこれは同じような例ですが、久留米に田村さんというゴム会社経営の方が熱心に参っておられた。まあここは左舞いになってどうにも出来ないところから、御神縁を頂かれて熱心に参ってみえた。丁度同じような状態、もうどうに出来ん、言わば八方塞がりといった、丁度私が御本部参拝しようとバタバタしよるところへ丁度参って見えた。
そこで私は御本部参拝前に風呂に入りますから、「田村さん、まあそのことは置いて、まあ一緒に食事でもさして貰おう、お風呂にでも入ってからおかげを頂きなさい」と言うてお風呂に入って、さっぱりと髭でも剃ってお食事ども一緒にさせて貰うと、「今日あんたがどうでもこうでもと言うておるそのことおいといて、私と一緒に御本部参拝しなさい」と申しました。ところが風呂にでも入って髭剃って気分が良くなって、御神酒の大変好きな方でしたが、御神酒でも頂いて少し心にゆとりが出来てきた。
「そんならいっちょう目つぶってお参りしましょう」それから久留米の駅まで一緒に参りました。その頃になったら、ちっとは酒がさめてきた。また心配になってきて、もう列車が来てから、乗るという段になってから、「先生どげん思うたって行かれませんから、矢張り御無礼します」と。私がもう汽車の中に引き上げんばかりに言ったけれども参らなかった。帰って聞かせて頂いたら、「もう、あの時の親先生の仰せられる通りにしとったら、こういう羽目にならなかったのに」と言って泣かれたけれども。
仕方のないことです。止むに止まれん働きがあっておるでしょうが。中々度胸は出来ません。今日のその九十節の前の八十九節に、「この方の道は傘一本でひらくことが出来る」と。いと簡単な御教えなんですね。この方の道は傘一本で開かれる道。そしてその九十節にはどうかと言うと、「上から下へ水を流すのは見易いが、下から上へ水を流すのは難しい。道を拓くと言っても匹夫の凡人から開くのじゃから、それは難しゅうて暇がいる」と言って、「難しゅうて暇がいる」と言っておられる。
けれどもね、けれども例え一時は難しいことがあっても、辛抱している中に徳が受けられる。辛抱して行く間に、先生は無理なことを言われ、そんなことそれでも、泣くなくでも辛抱しながら、泣く泣くでもついて行くという。そこから徳が受けられる。例えて言うと、それはほんなもんじゃなくてもです、お神酒の一杯も頂いて心が大きゅうなって、そんなら先生のおっしゃるように腹決めようと言うて、それで準備が出来て、久留米の駅まで行ったんですよ。
その間にお神酒で頂いとった言わば度胸ですか、お神酒を頂くと度胸が出来るんです。腹が大きゅうなる、私大体あの川魚は食べきらんけど、お神酒で頂くとおいしいです。食べます。食べればおいしい、それは度胸が出来る、お神酒頂くと。だから素面の時には頂きらん。だからお神酒をそこに頂かせてでもです、心にゆとりというか、安心というか、度胸をつくらせて下さる。
そしてそういう難しい問題でも一ぺんそこに置いておいて、親先生の言われる通りにしようということにです、度胸は出来たけれども、ところがお神酒を頂いて度胸の出来たのはね、飲む程に、酔う程にだけれども、今度は反対に、段々時間が経つに従って酔いが冷めてきた。久留米に行く間にちゃんと素面になったら、とてもとてもそげな冒険なことは出来んというので、汽車にもう乗るばっかりのところだったけれども。
まあ一緒に御本部参拝は出来なかったが、その時もし私がおらなかったら、私が御本部から帰ってからのような状態になってなかったのにとはっきりわかる。そんな事柄があった。この方の道は傘一本で開けるというのは、そういうことなんです。信心さして貰って段々わからせて貰う。信心度胸もの出来る、安心も出来る。信心で生れてくるところの度胸、信心から生れてくるところの安心、それをここでは傘一本と言うとられる。少しお天気が曇りだした。
それで傘を持って出た所、それは降っても降らなくてもそれは傘を持っとれば安心でしょうが。所が傘なしだったらどうでしょう。良か着物着とったらどうでしょう。雨が降ったらどうしょうか濡れんならん。しかも一張羅が濡れんならんと言う事になるわけなんです。不安ですね。ですから傘一本持っときゃあ安心です。いつ降っても大丈夫という、だから傘一本で開かれる道というのはです、金光様の信心の道というのは簡単に開ける。それは成程昔の先生方布教に出られる時には。本当に御社を背中に担いで。
そして新地布教に出られたんですからね。だからそこには家もなければ、信者も無論有る訳はありません、新地布教ですから。けれどもそれをやってのけるだけの勇猛心と、神様を信じて止まない力があったからこそ、どんな新地布教にでも、お社を背中に担いで出歩いて行けた訳です。だからいと簡単に開けるのじゃなくて、そんだけの勇猛心と神様を信じて止まない安心の心があるから道が開けるのです。
だからここんところ、この方の道は傘一本で開けると言う事を、ただ何も信心の力を持たずに簡単に開けると言った様な意味ではない。そこで八十九節と九十節から頂かせて貰うというのは、やはり下から上へ水を流す程難しい。しかも凡夫のことでございますから中々暇も難しいけれども、その難しい中にです、まあ場合には泣く泣くの辛抱もありましょうけれども、辛抱していくうちに徳が受けられる。辛抱していくうちにいわゆる神様を信ずる力が生まれてくる。
だからまた神様から信じられる氏子にならして貰うことが出来る。信心は神を信じ、神からも信じられる。信じ信じられるところから生れてくるのが傘一本である。そこで何十年の信心をしておってもです、只今申しますような心、止むに止まれん神様の働き、そうさせなければおかんという働き、それを受け切らなかったら、私ども止むに止まれんといった、そうしなければおられないという心と神様の止むに止まれん心とが一つになって火花を散らす程しの働きと言う事になってこないのです。
何十年たっても道が開けない、何十年たってもおかげになって行かないというのは、ただそういう時にです、全部おかげを向うの方へ押しやっておる、外してしまっているというので、おかげにならんでおるのです。今日の御理解は大変まあ言うならば素晴らしいおかげの頂かれることのためには、そういういわゆる勇猛心というかね、そういうお神酒一杯ひっかけてからでも、そういう安心の頂かなければならんというのが分りますね。どんなに良い信心をしておっても、いよいよここでおかげが受けられるか受けられんかの瀬戸際に立った時です。
私はそういう時にはですね、神様の止むに止まれん働きがありますよ、絶対。それが佐田さんの場合でも、佐田さんも二の足踏まれた。親先生の行かれるところにはどこにでもついて行くと誓いを立てとるけれども、しかも自分の家じゃない。本店の手前もあるから、ここで御本部は出来んという状態だったですけれども、奥さんやらお母さんやらが、「とにかく目をつむってお参りしなさい」と、と言う様な、そう言う様な働きがあった訳です。だから決断がついた。
それが反対に、「こんな状態の中にどうしてお参りが出来ますか」と「それはそうでもあろうばって、あなた今度だけは御無礼して、お止めなさいませ」と言うとったら、佐田さん方も綺麗にしまえとったでしょうね。本当にそれはね、そしてそれは帰ってから本店に対してですね、手前が悪いということでもなかった。実にそれはまあ綺麗さっぱりとしたおかげでしたね。いわゆる保証に立っとられる判を押しとられたんです。
ところが佐田さんが御本部に発ってからわかったことはですね、判の押すところが違うとった、押すところが。だから佐田さんを金光までも電話かけて、すぐ帰って来てから、判を押し直して貰わにゃならんということでした。ところが佐田さんは行った後、行った後で、電話が掛かっておるので、全然それは知らんで帰った。自分としては判を押しておられるから、本店に対する義理は済んでおる。帰って来たらしまえておった。そこでもうあなたの方まで、巻き添えが来んで良かったと、本店の方も却って喜ばれた。
ですからあんたがおらんやったけん困ったというようなことは全然、蓋を開けてみたらそういうおかげであった。それにはそういう働きがそこにあった。それからのいわば佐田さんところのおかげというものが、それこそ上から下に水を流すように順調に行っとるでしょうが。御一家のそれからの御一家を挙げての神様の働きは間違いがない、一分一厘間違いがない。これは佐田さん一家が、いつも言われる言葉です。神様の働きには、もう一分一厘の間違いがない。
だから神様のそのお働きの中に、こちらが没入する以外にない。そういう信ずる力、そういうことが安心、それが傘一本なのです。さあそれから開けるのは、それこそ上から下へ水を、下から上へ水を流すことは、匹夫の凡夫のことであるから、難しいけれども、凡夫であっても、凡人であっても、止むに止まれん神様の働きと、私どもの止むに止まれん働きとが一つになって、働きを表して参りますとね。それは上から下へ水を流すように容易うなって来る。
それからその後においても、問題は色々ありましたれども、神様の働きに間違いがないという信念は、いよいよ強うなって行くばかり、辛抱して行く内に徳を受けて行かれとるということがわかります。ですから、その徳を受けられる、その傘一本が出来て行きよる。どこに行くでも傘を忘れない。「神われと共にあり」と言う言葉がありますが、それならちっとは安心しとって良かろばってが、「神われと共にあり」と口では言いながら、心ではそれを感じ切っとらんから、いっちょもおかげ頂ききらん。
もう神様の一分一厘間違いのない働きをひしひし身に感ずる程しのおかげであって、神様があなたと共にいつもおって下さるということになる。神様はついておって下さろう。けれども神様の働きを氏子が現し切らん。そういう瀬戸際に立つことが、信心を頂いておるといつもあります。心掛けておきますとそのチャンンスが。そのチャンスをさっさと向うへ流してしもうて、何十年たっても本当のおかげが受けられんというのは、いわゆる上から下へ水を流すようなおかげになって行かないというのは。
そういう訳だと言う事になります。どうやら私が今日、どういう風なつながりになると思うたけれども、今日の九十節と今日御神前で頂きました、止むに止まれん神様の働き、そうさせねばおかんという働きと、そうしなければおられんという止むに止まれん働きとが一つになってというところを頂いての九十節でしたけれども、皆さん聞いて下さったようなところで大体つながりが出来たようですね。ですから何十年信心が続いとるだけではいかんのです。
いよいよの時にです、神様と止むに止まれん働きのところ、そうさせにゃおかんという働きのところに、私どもがサッサッと外していったんでは、いつまで経っても下から上に水を流すように、いつも難しいところばかり通らにゃならん。この方の道は傘一本で開ける道。いと簡単でしょう。それにはそういうところを信心の度胸というか、神様を信じて止まぬ働きというか、それを私どもが、それこそ佐田さんじゃないが、神様の一分一厘間違いのないことを思うとこう言われる。
どんな場合であっても、神様の仰せにしたがって行けれるということになってくるわけです。そこから徳も受けられて行けば、上から下へ水を流すような、傘一本で開ける程しの道が開けてくるのであります。大事なところですね。信心をいよいよ稽古させて頂いて、分からせて頂いて、そこのところを又の言葉で言うと、神様のお試しとも申します。「信心に身が入ってくると神様のお試しがありますぞ」と教祖様は仰った。御晩年の頃には参ってくる氏子ごとにこれをおっしゃったそうです。
「信心に身が入ってくると神様のお試しが必ずある。だからしっかり信心しなされや」とおっしゃる。その神様のお試しをいつも落第しておるのですから、やはり中学校ならいつまでも中学校、小学校ならいつも小学校というようなことになるのです。その今日は神様のお試し、そのようなことをですね、神様の止むに止まれん、そうさせずにおかんというような働きと言う所を頂くわけですね。そこんところを止むに止まれん、そうしなければおられんと言う所を、私どもの切実心、そういうものをより高めて行くと言う様な意味で頂きましたですね。
どうぞ。